INICIAR SESIÓN空欄は、ただの空白ではない。
書き忘れかもしれない。 確認漏れかもしれない。 急いでいたのかもしれない。 誰かが意図的に残した穴かもしれない。 あるいは、誰もそこに何かを書くべきだと思っていなかったのかもしれない。 王妃基金の帳簿を開くたび、エレノアはそのことを思い知るようになっていた。 数字がある場所は、まだ追える。 日付があるなら、その日の出来事と照合できる。 名前があるなら、その人物を呼べる。 印があるなら、責任者を問える。 品目があるなら、現物を探せる。 だが、空欄は違う。 何も書かれていない。 だから、何も起きなかったように見える。 けれど本当に何も起きなかったのか、誰かが書かなかっただけなのかは、そこから調べなければ分からない。 王太子ユリウスが薬草園で言った言葉。セレスティア・ヴァレンシュタインは、帳簿が嫌いだった。 嫌い、という言葉すら少し違うかもしれない。 怖かったのだ。 数字は、言い訳を聞いてくれない。 この支出は娘のためだった。 この髪飾りは誕生日の贈り物だった。 このドレスは王太子妃候補として必要だった。 この茶会は公爵家の体面のためだった。 この謝礼は夫人会との関係を保つためだった。 そうした言葉を、数字はひとまず横へ置く。 金貨何枚。 銀貨何枚。 支払い元。 承認者。 名目。 不足した費目。 延期された修繕。 そこに、涙は書かれない。 母の愛情も、娘の笑顔も、社交界の視線も、王太子妃候補としての焦りも、帳簿の数字には直接は載らない。 だから、セレスティアは帳簿を見ないできた。 見なかったのではない。 自分では、そう思っていた。 家政は家令が整えるもの。 当主が最終承認するもの。 公爵夫人は、家の顔と娘の装いを整えるもの。 細かな数字は専門の者が見るもの。 そう言い聞かせていた。 けれど王家監督下に置かれた今、その言い訳はもう通じなかった。 監督官ヘルマンは、王都屋敷の南側応接室を臨時の確認室に変えていた。 かつては夫人たちを招いて茶を飲んだ部屋だ。 薄い香りの茶、季節の菓子、花瓶、柔らかな会話。 今、机の上にあるのは茶器ではなく、帳簿だった。 リリアナのドレス帳。 装飾品記録。 教育費名目支出表。 社交費再分類案。 使用人宿舎暖房修繕延期記録。 そして、リリアナ本人が付けた青、黄、赤、白
リリアナがドレス帳を開く日が来た。 それは、誰かに命じられたわけではなかった。 王家監督官ヘルマンから、公爵家の支出再分類資料は届いていた。 リリアナの社交費。 教育費。 装飾費。 茶会準備費。 王太子妃候補としての体裁維持費。 そして、セレスティア夫人が「必要」と判断した細かな支出。 それらの一覧を見るだけでも十分だった。 数字は冷たい。 銀貨何枚。 金貨何枚。 仕立て代。 宝飾修繕費。 髪飾り代。 舞踏靴代。 季節ごとの外套。 茶会用手袋。 王宮挨拶用の淡色ドレス。 夜会用の刺繍入りドレス。 数字は、言い訳をしない。 けれど、数字だけでは分からないものもある。 そのドレスを着た日の気持ち。 母に褒められた記憶。 鏡の前で少しだけ自分を好きになれた瞬間。 エレノアが忙しそうに書類を読んでいる横で、自分だけが新しいリボンを選んでいた後ろめたさ。 全部が混ざっている。 だからリリアナは、自分から言った。「ドレス帳を見たいです」 北翼の執務室でそう言った時、エレノアはすぐには頷かなかった。 机の向こうで、姉はしばらくリリアナを見ていた。「今、見る必要がある?」「あると思う」「つらくなるかもしれないわ」「たぶん、なる」「全部を自分の罪にしないと約束できる?」 リリアナは、すぐには答えられなかった。 それを約束するのは、少し難しかった。 だって、自分のために使われたお金だ。 自分が綺麗だと言われたくて
ヴァレンシュタイン公爵家の監督報告は、いつも重い。 紙の量が多いからではない。 もちろん、多い。 領地税、家政費、使用人給金、宝物庫、社交費、分家支援、王都屋敷の修繕、領地の橋、冬前の穀物管理、前当主時代から続く寄付名簿。 公爵家というものは、血筋だけで立っているわけではない。 帳簿の上にも立っている。 むしろ、帳簿を見れば、その家が何を大切にし、何を見ないふりをしてきたかが分かる。 だから、重い。 父の家を見ることは、父の言葉を聞くよりも重い時がある。 北翼の執務室で、エレノアは王家監督官ヘルマンから届いた中間報告を開いた。 表紙には、簡潔にこう記されている。 ――ヴァレンシュタイン公爵家監督報告。 ――当主権限停止後、第一期整理。 ――提出者、王家監督官ヘルマン・グラーツ。 隣には、リリアナが座っていた。 今日は見学ではない。 本人関係者として、一部説明を受ける日だった。 ただし、すべてを見せるわけではない。 家の財産や使用人の個人情報には、閲覧範囲がある。 つい先日作ったばかりの「必要以上に知らないことも保護の一部」という考え方は、公爵家監督にも適用される。 リリアナには、自分に関係する教育費、社交費、王太子妃候補工作に関わる支出、そして今後の生活費に関する部分のみが共有される。 それでも十分に重い。「緊張している?」 エレノアが尋ねると、リリアナは素直に頷いた。「しています」「見たくないなら、今日はやめてもいいわ」「見ます」 答えは早かった。 けれど、手は少し震えている。「知らないままに戻り
王太子府の机に、開封されていない封筒が一つ置かれていた。 白い封筒だった。 封蝋には、王妃基金の仮印と、保護記録担当者の細い確認線が入っている。 表には、こう書かれていた。 ――限定記録。 ――閲覧段階、第三段階以上。 ――開封には理由記録が必要。 ユリウスは、その封筒をしばらく見つめていた。 封筒は黙っている。 当然だ。 紙なのだから。 だが、その沈黙がやけに重かった。 王太子府再教育の今日の課題は、限定記録と閲覧権限。 つまり、「知らない義務」を学ぶ日だった。 以前のユリウスなら、その言葉を聞いて首を傾げただろう。 王太子が知らないことを選ぶ? 民を守る立場の者が? 国の中枢にいる者が? むしろ、できる限り知るべきではないのか。 そう思ったはずだ。 実際、今も半分はそう思っている。 知らなかったから、王妃の療養薬は見落とされた。 知らなかったから、ダリウスに利用された。 知らなかったから、王妃基金の不正も、夫人会の別口資金
灰色の少年が、もう一度救貧院へ来た。 その知らせは、フィオナ司祭からの短い伝言として北翼へ届いた。 ――仮名「灰色」の少年、再訪。妹の熱は下がりつつあり。臨時雇用相談を希望。本人より、リリアナ様が同席可能なら話したいことがあるとの申し出。 リリアナは、その紙を読んでしばらく黙った。 手帳を開く手が、止まっている。 灰色。 あの日、本名を言いたくないと小さく答えた少年。 妹が熱を出していると言い、麦と薬草茶を受け取った少年。 名前の代わりに、自分で選んだ仮名。 リリアナが初めて「本名を無理に聞かない記録」を書いた相手だった。「私が同席していいの?」 リリアナは、エレノアを見た。 エレノアは伝言の文面を確認し、静かに頷いた。「本人が望んでいて、フィオナ司祭が同席するなら。ただし、あなたが聞く役ではなく、立ち会う役よ」「立ち会う役」「ええ。話を急がせない。名前を聞き出そうとしない。本人が話す範囲を尊重する」「分かってる」 リリアナは、そう言いかけてから少し言い直した。「分かっているつもり。だから、フィオナ司祭に従います」「それでいいわ」 エレノアは少しだけ表情を柔らかくした。「行く?」「行きます」 返事はすぐに出た。 怖さはある。 けれど、行かないという選択はなかった。 あの日、自分が書いた記録が、次へつながった。 ならば、その次を見届けたい。 救貧院へ向かう馬車の中で、リリアナは手帳を見返していた。 ――灰色さん。妹が熱。薬草茶。仮名記録。本名申告困難。次回、フィオナ司祭担当。
薬草茶の配布は、朝のうちに止まった。 まだ誰の手にも渡っていない。 救貧院の棚にも、孤児院の保管箱にも、療養施設の湯沸かし場にも届いていない。 だから、被害は出ていない。 ただし、問題は出た。 王妃基金の北翼窓口へ、夫人会から緊急連絡が入ったのは、朝食後まもなくのことだった。 差出人は、デリア・ラングフォード侯爵夫人。 内容は短い。 ――匿名口頭受付にて、療養施設向け薬草茶の香りが前回と違うとの申告あり。 ――配布前に一時停止。 ――薬草品質確認部門へ照会済み。 ――ガスパル氏、乾燥不足の疑いありと仮判断。 ――本日午前、正式確認希望。 エレノアは、その報告を読んだ時、まず安堵した。 止まった。 配る前に。 けれど、その次にすぐ別の重さが来た。 止めたということは、届くはずだった薬草茶が届かないということでもある。 療養施設では、寒さや不眠、胃の不調を和らげるために、その薬草茶を待っている者がいる。 救貧院でも、体を温めるために必要としている者がいる。 不良品を配ってはいけない。 だが、止めたなら、止めた理由を伝えなければならない。 代替品を探さなければならない。 ただ「安全確認のため延期」と書くだけでは、現場は困る。 昨日までの夫人会なら、こう書いただろう。 ――諸事情により配布を延期いたします。 それでは足りない。 諸事情では湯は沸かない。 理由のない延期は、不安を増やすだけだ。 エレノアは、机の上の報告書を閉じた。「オスカー。薬草品質確認部門、夫人会、救貧院、療養施設の担当者を集めてください。小







